カネ吉山本

近江牛とは?どうして近江牛なのか?その問いかけに対する、カネ吉の「答え」です。


「近江牛」とは?

カネ吉山本『近江牛』とは?−カネ吉の「答え」

近江牛とは

牛舎の牛

近江牛」とは、
『豊かな自然環境と水に恵まれた滋賀県内で最も長く飼育された黒毛和種』
(地域団体商標(文字商標) 第5044958号)
とされています。

この「近江牛」の中から、「近江牛」生産・流通推進協議会が、「A4、B4等級以上」など、協議会が認定したものを、「認定」近江牛としています。

「A5」や「B4」とは?

「認定」近江牛についてのカネ吉の考え方


カネ吉では、近江牛生産・流通推進協議会による「認定」近江牛であるかどうか、ということはさほど重要視していません。

それには、近江牛が何故美味しいのか、和牛最古の歴史を誇る「近江牛」というものがどのようにして銘柄和牛として全国に認知され、現在までその地位を築き、守ってきたかということを知る必要があります。

カネ吉(初期)の包装紙

何故、近江牛は美味しいのか?

一言で言ってしまえば、「歴史と伝統に裏打ちされた日々のたゆまぬ努力の賜物」と言えますが、もう少し詳しく掘り下げてみましょう。

何故近江牛は美味しいのか


牛肉の美味しさとは、概ね、脂肪の質で決まります。脂肪の多い少ないではありません。見た目だけのことではありません。そしてその質の良い脂肪をつくるのは血統であり、餌であり、水であり、生育環境です。結局のところ、つまりどれだけ牛のことを知っているか、ということになります

田園風景


カネ吉山本 会長の山本卓次は語ります。

「1つに、近江はもともと、古来より農産地としても栄えていました。中でも近江牛の産地として知られる愛知川、日野川、野洲川の大きな河川のある一帯は、豊かな土壌と良質の水資源に恵まれていて、作物を育てるのに大変適した土地です。江州米(近江米)や、その裏作になる麦などの産地としても知られていますね」

近江でも、農作業にとって、牛は欠かせない存在でした。

役牛


明治になって食用としての牛肉が一般に広まりだす以前は、「牛」は乳牛以外はそのほとんどが「役牛」といって、農耕や運搬の動力として使われていました。さらに牛糞は農作物の肥料となっていました。

今でこそ食肉に適していると言われる黒毛和種ですが、その黒毛和種の原型は、この日本古来の役牛でした。

「つまり、もともと農作のさかんであった近江一帯では、長いあいだ、現在の黒毛和種(の原型)の牛を育て、家族同然に牛と生活を共にしてきたという歴史と文化があったのです。近江という土地は、他のどの産地よりも牛のことを深く知り、学び、健康な牛を育てる術を自然と受け継いできたのです」(山本)

この牛を、食用に転用していったのが「近江牛」の始まりです。

数ある銘柄牛の中でも、近江牛の歴史は最も古く、江戸時代は近江牛の味噌漬けが養生薬の名目にて将軍家に食されていたこと、近江牛に纏わる逸話として、かの「桜田門外の変」は「食べ物の恨み」であったと言われていることは有名です。


桜田門外の変は「食べ物の恨み」だった?

第15代将軍徳川慶喜の実父にあたる水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、彦根藩(近江)より献上される近江牛の味噌漬けを好み、毎回の献上を楽しみにしていましたが、彦根藩主である井伊直弼は、大老になった際にそれまでは許されていた領内での牛の屠殺を禁じ、献上をやめてしまいます。
近江牛の旨さが忘れられない斉昭は、使いを立てて何度も再開を要請するも井伊直弼はまったく応じず、遂には斉昭自らが江戸城で井伊に懇願するに至ります。その荒々しい気性で「水戸の烈公」とまで呼ばれた斉昭が、恥を忍んで頭を下げたのです。
しかし、井伊直弼は、牛馬を殺生するなどとは野蛮人のすることだと斉昭を嘲笑し、断ってしまいます。
これに対して、斉昭の家来である水戸浪士たちは、主君を愚弄し恥をかかせたと激怒し、井伊に対して復讐を誓った、と伝えられます。

桜田門外の変
桜田門外之変図(茨城県立図書館 所蔵より)

水戸庶民は、桜田門外の変のことを「烈公の肉の怨みを水戸藩士が討ち晴らした」「すき焼き討ち入り」「御牛騒動」と言っていたそうです。近江牛は「大老の首が飛ぶほど美味い牛」と詠われました。

「桜田門外の変」の僅か10日後に出版されたという瓦版(出典:桜田門外牛騒動之図「幕末確定史料大成 官武通紀・桜田騒動記」(玉蟲左太夫))には、桜田門外の乱闘が描かれ、中央に牛の首の絵が、左下方に「モウ御免と桜田門」「食べ物の恨み恐ろし雪の朝」「大老が牛の代わりに首切られ」と詠まれています。

この「食べ物の恨み」が「桜田門外の変」にどれほどの影響を与えたかまではわかりませんが、これもひとつの史実、ではあるようです。

近江牛の歴史/明治以降


明治以降は近江商人が大活躍をします。

汽車イメージ


明治初期、牛の輸送は、生きたままの牛を引き連れての陸路か船便でした。
船便では、東方へは神戸港−芝浦港というルートで近江牛が輸送されたのですが、神戸港では、近江牛にもその他の牛にも、出港元としての印である「神戸」の烙印が押され、そのため、到着した先では、近江、但馬、松坂の牛などすべてが「神戸牛」「Kobe Beef」(外国人)と呼ばれました。

明治22年(西暦1889年)には鉄道の東海道本線が開通し、翌年より近江八幡駅から初めての鉄道を使った牛の輸送が始まり、「近江牛」という名がようやく全国に認知され始めます。
しかし明治25年には、朝鮮半島より牛疫が伝播し、生牛(たちうし・生きたままの牛のこと)を輸送することが禁止されてしまいます。

これに困り果てた近江商人たちは、そのしばらく後に、当時にしてみれば考えられないことをやってのけました。
枝肉(一頭の牛から、頭部や内臓などを取り除いた状態のこと)での出荷を始めたのです。
枝肉の出荷はやはり近江八幡駅から始まり、その後も工夫に工夫を重ね、やがて「近江牛」の名は全国に轟きました。
同時に、この枝肉での取引という手法も全国に広がっていき、現在では牧場−食肉業者間での取引やセリはそのほとんどが枝肉での取引となっています。
今では全国で当たり前になっているこの取引方法は、もとは近江商人たちの「苦肉の策」だったのです。
この時に、「カネ吉」の創業者である山本竹三良は、近江牛の普及に大きく貢献しました。
竹三良は、近江牛を生牛としてではなく、牛肉として全国に普及させた最初の功労者の一人でした。

カネ吉前写真

カネ吉は、大正の末には東京に卸売店を開設、東北・北海道にも販路を拡大し、信用と実積を高め、やがては宮内省(当時:現在の「庁」)御用達をおおせつかるまでになります。

昭和の統制経済もあり、戦時中には牛肉の県外移出が禁止され、県外では何れも店を引きあげることを止む無きとされましたが、その後も、地元である滋賀県近江八幡にて、地域の皆様と信頼を築きあげてまいりました。

近江牛の定義−本当のところ


少し前までは、「近江牛」というものの共通で厳密な定義というものは、実を申し上げますと、はっきりとしたものはないも同然でした。
いくつかの団体が集まって業界としてのガイドラインを定めてはいましたが、その殆どが自主規制などによるもので、解釈も店によって微妙な違いがあったり、法的拘束力があったわけでも、守らなかったからといって何か罰則などがあるわけでもありませんでした。

何故、それなのに「近江牛」は今日の名声を保っていられたのか?

近江牛とは、もとはと言えば銘柄としての名称というよりも、例えば「○○(地名)で採れた野菜はおいしい」などという意味での、単に「○○(地名)の牛」という意でした。そしてそれは松阪の牛でも神戸の牛でも本来は同じことの筈なのですが、そのままにしておくと、良い、美味しい、そういう評判が立ってきた場合に、それを利用しようと、近江の牛でないものまで、または粗悪なものまで「○○牛」を名乗る者が出てきてしまいます。

牛

そこで、有志が「○○牛」を名乗っても良い最低限の条件を付けることとなります。

ところが、近江牛に関しては、近年までその最低限の条件すら曖昧であった、ということはどういうことなのか?

それは、ひとえに、長きに亘って、「近江牛」の名はその担い手一人一人のモラルや自助努力に委ねられ、守られてきたということであります。

近江牛は、法律や規制などによって守られてきたのではなく、それぞれの、「本当に良いものを提供したい」という思いによって守られてきたのです。
これは、もしかしたら「信じられない」と思う人もいるかも知れませんが、少なくとも、近江という土地では、それが可能でした。

そしてそれこそが、近江の地では規範となっている、近江商人の心でもあります。

近江商人の誇りと感謝を胸に。「近江牛といえばカネ吉」


近江牛といえばカネ吉、カネ吉といえば近江牛」

近江牛のすき焼き


カネ吉の地元である近江八幡では、当たり前に言われる言葉です。
おめでたい時や行事の時にはカネ吉の近江牛でお祝いしてくださり、遠方からの客人に出すものは「カネ吉で間違いない」と言っていただいております。

カネ吉でも、例えば、形式的には『近江牛』の範ちゅうであっても、「質のよくないものは近江牛としての販売はしない」など、商人仲間(商売敵でもあるため、仲間と呼ぶには余り仲は良くありませんが)や或いはお客様との暗黙の了解と、それよりも厳しい内規を自らに課し、「近江牛」に愛着と誇りを持ち、それらを忠実に守ってきました。

「近江牛」を扱う商人や職人から飼育農家に至るまで、皆、ただただ、近江牛を近江牛として育て、販売すること、先人が築き上げてきた歴史と伝統を決して汚さないこと、多くの近江商人がそうしてきたように、「三方よし(売り手よし・買い手よし・世間よし)」 - 「売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体の幸福につながるものでなければならない」という理念と、1つずつ、1人ずつ築いていく信用を何よりの財産とし、その誇りと感謝を胸に、ひたすらにその意味での「よい商い」ができることを求め続けてきた結果として、「近江牛」を守ってきました。

もしも「自分だけが良ければ良い」「法律さえ守っていれば何をしても良い」「今だけ大きく利益を上げれば良い」などといった者が多かったら、近江牛の名はとうの昔に地に堕ちていたでしょう。
この後も、「近江牛」を、高めるのではなく守るでもなく、ただ利用することしか考えないような者ばかりなら、すぐに「近江牛」の名は廃れていってしまうでしょう。

カネ吉も、もちろん「近江牛」を守り続けてきたその一人(一社)です。
それだけでなく、守り続けてきた第一人者であります。
「近江牛のカネ吉」ではありますが、本当は、「カネ吉こそが近江牛」であるとの自負があります。

近江牛にかける思い


近江牛指定店認定証

余談ですが、近年に発足した「近江牛生産流通推進協議会」が認定する「認定近江牛指定店」なるものも、なるほどそれで粗悪な業者はある程度は排除できるのかも知れませんが、それは同時に、認定する基準の最低限度さえクリアしていれば「指定店」になれるということでもあります。

そうなるとその「最低限度」が問題になるのですが、カネ吉から見れば今の協議会の緩すぎる基準では、かえって「近江牛」全体のレベルの低下を招いてしまうことになるのではないかという懸念があります。
これは、カネ吉が協議会への参加を躊躇した理由の一つです。
(そのためカネ吉では、協議会に対して、指定店の基準をもう少し厳しくした方が良いのではないかと働きかけています)

ただ、昨今では、販売側のモラルの低下や「売らんかな」主義の台頭などに私どもも心を痛めることもあり、何れにせよ最低限の明確な枠組は必要であることは言えるのかも知れません。

カネ吉は、カネ吉だけが良ければ良いという考えはありません。
「カネ吉」という名前そのものが売れることよりも、「近江牛」がより高まっていくことの方を、より望んでいます。

近江牛の歴史と同様に、カネ吉にも百十余年の歴史がありますが、カネ吉は、古きものにすがり付く気も、新しきものに流されるつもりも、ありません。古くとも新しくとも、良いものは良いのです。
良いものを提供する店に新参も古参もありません。より良いものを提供する店が良い店なのです。

カネ吉は、「どれだけ売れるか」「どれだけ利益をあげるか」という競争は、どなた様とも致しません。
しかし、「どれだけ良いものを提供することができるか」という競争であるなら望むところです。そうして切磋琢磨していき、結果として「近江牛」やその食文化を高めていくことになれば、まさに「三方よし」であります。

どうして近江牛なのか?


カネ吉が守り続けてきた「近江牛」には、誇りと自信があります。
鍛えられてきた、確かな目があります。
伝えられてきた、確かな技術があります。
「もっと良いものを提供していきたい」という、志があります。

近江牛包装後


他店様の手前、余り大きな声では言いませんが、本当は、「近江牛のカネ吉」ではなく、

「近江牛とは、カネ吉のことである」

と言っても良いぐらいの気持ちでおります。


「どうして近江牛なのか?」

その問いかけに対する答えは、私たちがお出しする近江牛肉に、すべて詰まっています。

カネ吉山本の近江牛肉を、是非一度ご賞味くださいませ。

お問い合わせ

TEL:0748-32-5300

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店舗情報

カネ吉山本外観
滋賀県近江八幡市鷹飼町558

■ 営業時間:AM9:00〜PM7:00

■ 駐車場:20台

■ 定休日:火曜日

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